五の章  さくら
 (お侍 extra)
 

    東 風 〜またあした

       三の章


 春もいよいよたけなわで、花王でもあるサクラの開花を愛でての祭りが、今年も何とか催される予定。例年ならば、先の差配だった綾麻呂が主催し、音頭を取って運ばれた仕儀仔細だったため、その彼が不在の今年は…それへと重なるようにご子息の不幸もあってのこと、さすがにどうなることかと危ぶまれたものの。執行するにあたっての手筈は配下の面々が覚えていての準備も万端。災厄があった前年だったなればその厄を祓うつもりでの華やかな催しにすればいい。故人への喪も明けぬのに不謹慎だと思うより、虹雅渓は揺るがずの示しにもなろうとする声のほうが高かったこともあり、例年どおりの開催が決定したのがほんの半月前のこと。当然としていいものか、ついては各所の警備や整理には警邏隊の方々にも出張っていただくとのお達しが、組主らの連名になっている主催から届いたのを見た本部長。機能的な制服の衿元からタイをむしるように外しつつ、切れ長の目許をますます眇めてしまわれる。

 “さすがに誰か一人を代表とするまでにはまだ遠いか。”

 綾麻呂の後を担う者という座、どの組主にも意欲はあろうに、今のところは牽制し合っているのが見え見えで。醜くも先陣争いを繰り広げぬは、慾がないのではなく自信がないことの現れ。全くの公明正大な善人だったかどうかは微妙なところだが、統治者として見るならば、先の差配はさすが叩き上げという身であったればこそ、その蓄積から培った人性の厚みのようなものを持ち合わせてもおり。負けて勝つという大人の理屈や、様々な忍耐こなせる余裕など、単なる周到さだけじゃあない、人格の器の大きさのようなもの、感じさせるお人ではあったから。そんな先代の威容や手腕と直接比較されてはたまらぬと、まだ少々思い切りがつけられない連中でもあることの判りやすい現れだろと、兵庫殿には見えたらしい。デスクと書架くらいしか調度も置いてはない、殺風景なばかりな執務室内に、今は彼一人しかいないのをいいことに。一応は正式なその書状、ポイと無造作に机の上へとすべらせて、

 “これはやはり……。”

 こんなところへもその余燼というものが現れているようならば、やはり早々に御前にお戻りいただかねばなとも思わずにはいられない。右京が謀殺されたあの撃墜事件の余波が、さほどに立たずに済んでいる虹雅渓ではあるけれど。この安寧がそのまま定まってくれるかどうかは、正直言ってまだ微妙に不明な案配。警邏隊なるものを預かる身にあるにもかかわらず、いやさ、そんな立場であるからこそ、そうだと判る大局が見渡せるのが、今は何とも恨めしい彼であり。

 “…。”

 治安維持のためという取り締まりに 禿
(かむろ)らによる警邏隊が配されていたり、罪科への刑罰は差配の名において執行されていたほどなので、綾麻呂の影響力は確かに大きかったのだけれども。だからといって徹底した独裁がしかれていたワケじゃあなし、どちらかといや、商人たちの首魁、組主たちの代表という立場にあったにすぎぬ。商人らには親方にあたるお人なれば、この町の主軸をなす商店主らにすれば、彼の示す決まりごとやら布告へも柔順に従っていたものの、町角や裏町にくすぶる浪人たちからは徹底して反感を買ってたのもそんなため。しかも、都との結びつきを得たのも最近であり、まだまだ差配のみが相手をしていたような段階だったため、“都”だの天主だのからの影響も、街の人々にまではあんまり浸透しちゃあいなかったのがそれを如実に表していて。

  ―― 新たな統率者が現れないままで、
     果たしてこの規模の街が破綻なくいられるものなのだろうか。

 侍という古臭くもお堅い観念へと固執し尊重するよりも、合理をよくよく解するところが多々あった兵庫ではあったものの。それでも…長きにわたって軍人だった彼には、大勢多数でしかも様々な層の人々の集まりというものは、束ねられ導かれていてこそ安泰だという観念が多少は根付いてもおり。何も起きぬは僥倖と、呑気に構えておられぬ杞憂や案じ、常に抱えて今日まで来たようなもの。

 “もうちっと、風格出るまでの組織固めが整えばな。”

 今現在 彼が率いる警邏隊は、規律への姿勢も、各人の持つ士気の高さも決して悪くはないのだが。右京に裏の始末へでも駆り出されてだろう、その結果、神無村サイドにいた侍たちに殲滅させられたものか。かつて“子飼い”という立場だったころには用心棒へと組分けされていた、実力もありはしたが個性豊かで荒くたい、無法者連中が誰一人居残っていない所帯は、今一つ 気負いばかりが先に立っているような傾向が見受けられる。上からの指令へ絶対とする統率力を優先するあまり、自主的な判断で動く習慣の少なかった面子。仕方がないといやそれまでだし、これからも続く任務の効率を思えばその方が最善ではあるのだが。

  ―― 目下の敵がいるとすれば、
     恐らくは蜂起を決した浪人たちとなるのだろうから

 選りにも選って右京が足場にしていたこの街で、なのに、今の今までそういう暴動が不思議と起きなんだ、裏事情というか真相というか。誰が誰に率いられていたのか、誰と誰が結託していたのか。そして、誰が誰を誅したかという“真実”を、よくよく知る身の兵庫としては、この街の居残り浪人共はさほど恐るるに足らずという、この街のどこぞかにおいでな某軍師殿やその元副官殿と同じような見解でいるのだが。これもまた…彼らとは微妙にニュースソースは別ながら、先の騒動後、離散した格好の“野伏せり”連中の下っ端たちの動向とやらもまた、きっちりと把握しており。真の事情を知らぬそやつらが、今の窮状はアキンドのせいだと一方的に思い込んでの蜂起の気配。今更真実を語れるものじゃあなし、語ったところで信じやしなかろと来て、

 “…どこまで続く後始末かな、だよな。”

 避け難い衝突なのは必至ながら、そんな集団と対峙するにはやはり、威圧という形のものでもいいから、個々人にもう少しほど鷹揚さを出せるまでの自信がつけばなと。最も有効な対処・理屈はそうなれど、今の今からでは到底間に合う筈もなく。そんな如何ともしがたい現実が見通せる、聡明怜悧な身なればこそ…歯咬みするしかないジレンマよ。癇の強そうな薄い口許を、されど咬みしめたところで もはや詮無いと思い直してのこと。鬱屈が充満している胸元を少しでも空けようと、遣る瀬ない吐息をこそりとついていたところ。そんな執務室の扉を堅い音にてノックする者がある。

 「兵庫様。」
 「…なんだ。」

 夜勤上がりでまだ早朝だというに、何とも憂鬱そうな不景気顔をしていては、事情が通じてなかろう部署の者だろ連絡担当へ不安を抱かせると。幾分か気を取り直して入れとの声を掛けたれば、

 「朝食が届いております。運んで参りました。」
 「そうか。」

 春の祭りへと隊員配置の割り振りを移行しつつある、これもその煽りの一つ。突発事態への対処にと彼自身が運ばねばならぬ場合を見越してのこと、本部にいる間は居場所をこの執務室に固定したくてと、三度の食事も出来るだけ此処でとるようにしており。その結果として、出入りの仕出し屋が持ち込む弁当で間に合わせているのだが。ここ数日はその食事にさえ箸が向かぬ彼でもあって。そんな形で何かしら、現れているものもあるものかと、丁度想いを巡らせていたこと、ついつい重ねてしまった うら若き本部長殿だったりし。

 「こちらになります。」

 すみやかに、だが静かにドアが開き。そこに立っていた若者が、作法に則った一礼を添えつつ、丁寧に両手で掲げて差し出すところは、さすが 元は高貴な一族を気取ったような暮らしぶりをと体裁整えていた差配に仕えていただけはあって。形になっていての、それはそれは美しいもの。こういったささやかなところにも毅然とした気構えがあって、本当に士気の高い良好な状態にあるのだと思うにつけ、いつか間近に襲い来るのだろ決戦のときを、上々の成果で収めさせてやりたいものだと、あらためてのこと、つくづくと思ってしまった兵庫殿であったのだが。


  “……………んん?”


 そのまま下がった係の士官も気づかなかったらしいことながら、一人前の弁当箱へと収められている、いつもの食事の景色・見栄えが、微妙ながら何だか違うような気がした。回収方式の器も盆もどこと言って代わり映えはしないのだが、何かが引っ掛かった以上、気のせいとして捨て置くのも気の収まりが悪い。ならば食べねばいいだけではあるがと、そこまで思ったところで気がついたのが、使い捨ての箸の箸袋に仄かな陰りが滲んでいるような。
「?」
 日頃白いことが当たり前なものだから気になっただけ。さして汚れてもない、置き方によってはそうと見えなくなる程度のその陰りは、どうやら箸をくるんでいる和紙の裏側に、何やら記されているのが透けていてのことだったようで。食後に口許や指先を拭うものとしても使えるよう、巻紙のように箸に巻かれてあったそれ、怪訝そうなお顔のまま、くるくるとほどいた本部長殿の鋭角な横顔が、

 「…、…………。」

 一瞬、何にか意外そうな反射で目を瞠ったそのまま、やがて視線がするりと紙面を舐めてゆく。筆の穂先を揃える試し書きでもしたものか、薄墨の流線が柳の若枝を思わすような筆至でもって幾本か並んだそれは。実に優美な古
(いにしえ)の書体を、大戦時代に南軍でのみ復刻されたらしき代物で。書体があまりに崩されているがため、判る者には判るものだが、判らぬ者には落書きにしか見えない難物であり。それを何度か繰り返し眺めてののち、余白へと逸らされたまんまになってしまって どこへも据えられぬ視線は恐らく。彼自身の気持ちの中をたゆとうてでもいたらしい。それからそれから、

 「……小賢しい真似を。」

 目許は尖っての怒
(いか)っていながらも、口許には複雑そうな苦笑が隠しようもなく滲んでしまう兵庫殿。随分と早い時期から、何とはなくだが生きていることは察していた。大戦の最中よりのこと、自分の生にさえ執着薄い男であったが、生きてみたくなったとほざいた“動機”を追いかけて。不自由なかったはずの立場を捨て、絶対不利な農民の側へと寝返った大馬鹿者。どれほど苛酷な戦域に投じられても、相手陣営を見事殲滅した上でけろりと生還したその悪運が、相変わらずに続いていたらしく。先だっての“癒しの里”での騒動においても、その姿が目撃されたと漏れ聞いているかつての同僚。

 “…久蔵。”

 幼年学童という身で参戦果たした、始まりからして破格の存在。研修時代に生死の境をさまようほどの大怪我負ったが、それでも懲りずに戦線へと復帰をし。その折の入院でどこかに何か埋められたんじゃあなかろうかと噂されたほど、実戦で見せた戦いっぷりは恐ろしく。見た者すべてへ戦慄を植えつけ、ついたあだ名が“天穹の死神”だの“死胡蝶”だの、幼子相手に恐ろしげなものばかり。まま、そうなったのも無理はなく。その痩躯のどこにそんな力があるものか、どこにも機巧を加えてはない生身でありながら、人間離れした跳躍力にて高層圏という戦場での空中戦を制し。ちょっとした戦艦ほどもの戦闘力と装甲誇った紅蜘蛛でさえ、刀を持たせた彼にかかれば、あっと言う間に微塵に刻まれた恐ろしさ。その強さと引き換えに、人間らしさを持たずに通した彼だったはずが。それとは真逆、こんな搦め手を弄すよな、錯綜しまくりのややこしい男の軍門に下り、何かしら企んでおりまするとの奏上、わざわざ寄越して来ようとは。

 「……。」

 自分らだけでもこなせようこと、なのにわざわざ一枚咬まぬかと言って来た。いやさ、こっちの窮状へも役に立つ仕儀だと思うのだがと、言わんばかりのお膳立て。そこのところを丁度案じていただけに、兵庫としては余計に苦々しいこととして、手痛い指摘をされたような気もしたけれど。個人的な蟠りや好き嫌いを取り沙汰してる場合ではない現状だくらいは判ってもおり、

 “蛍屋には関わりなしとしたいらしいな。”

 そうそう誰にでも読めるというものじゃあない伝言文を、箸袋に忍ばせて運ばせたのは、万が一にも第三者に読まれることを恐れてという対処ではなかろう。遊里随一のお座敷料亭とは、縁もゆかりもなさそな仕出し屋経由であった辺り、既にその周到さで事態へ当たり始めている彼らだというのが窺えて。そして、
“是でも応でも返答は要らぬというのは。”
 これもやはり、蛍屋への接触を拒んでのことと…それから、
“参与する気がないならないで、それでも結構ということか。”
 あの蓬髪の壮年軍師殿が、途轍もない奇策と自身の見事な刀さばきとを駆使し、再び陣頭に立つというのなら。しかもその脇を、あの久蔵とこれも練達だった槍使いの元副官が固めるというのなら。たかが半端な素浪人どもと、鋼筒や甲足軽がせいぜいの野伏せり崩れ、どれほどが束になって掛かっても敵いはすまい。

 “むう…。”

 どういう慈悲か酔狂か、それとも我らを何にか利用する気か。考え始めれば、いやさ疑い始めれば どれほどだって思索は広がる、ある意味、因縁の相手ではあるが。ままよ、こちらからもせいぜい便乗させてもらおうさねと。片側だけが跳ね上がってた細い眉、何とか元の位置まで下げて。やっとのこと、本題の朝食へと箸を取った兵庫殿であったりする。

 “…にしても。
  あいつ、この“ささめゆき”だけで食ってけそうじゃないか。”

 扇子の地紙に使って、薄墨の柳だの流水だのと誤魔化せそうな、はたまた名のある書家の草書としても善さそうな、そりゃあ見事な達筆であり。ただし、南軍出身の将官以上には、あっさり読めるのが難といや難で。そんな代物片手に掲げ、何がおかしいやら苦笑が絶えないままに食事を進めた隊長殿。日頃は相当残すそれを、久々にきれいさっぱり完食したのははっきり言って余談であるが。
(まったくだ)




     ◇◇◇


 そんな上層部と時間帯は同じな、まだ早朝のこちらは“癒しの里”の一角。雨戸を立てることもなしとした居間のお隣り、寝間へと延べられた衾の中、肌に馴染んで心地いい、ぬるい温みの中にて意識が目覚める。明け方はまだまだ肌寒いという頃合いは、既に過ぎつつある今日この頃。たといそうであっても、このように…誰ぞと触れ合うほども間近になって熟睡するなぞ、昔の自分には考えられなかったことであり。兵庫が知れば、何とも複雑そうな顔をしたに違いない。警戒云々以前に、落ち着けなくての眠れない。大戦からこっち、それが常套の身であった筈だのに、いつの間にやらほだされてしまい、それどころか、

 『…。』
 『? 冷えるのか?』

 並べた布団の中、横へ横へとずれ込み、自分の横たわる敷布へまで進軍して来た久蔵を、怪訝そうにしつつも掻い込んでくれた勘兵衛だったという順番での、眠りであり、且つ、この目覚めだったりし。
「…。」
 いよいよの作戦始動だとあれこれ手を打つ日々に入ったがため、心地が弾みはしても、乙な気分になぞ なってはいない。ただまあ、強いて言えば何とはなく落ち着けなくて。そこのところを上手に言えず、その代わりのように額をうにうにと、前髪ごと勘兵衛の胸板あたりに擦りつければ。何へと焦れている久蔵か、彼にも容易く判ったらしい。

 『まだ何日かは日があるぞ。』

 苦笑をこぼした壮年から、初陣へ向かう新兵のようだのと揶揄されたものの。そんな経験なぞないのでどういう意味かがまずは分からなかった、相変わらずの“順不同青年”であり。
「……。」
 今朝はさほどに難しい顔をしてはないなと。壁の一角にしつらえられた円窓の障子越し、仄明るさを滲ませる朝の明るみの中で、こちらを向く格好で僅かほどうつむいている勘兵衛の寝顔へ、そのような評を投げかける。彫の深い精悍な顔立ちは、表情がのらないと気難しそうなそれにも見えて。どれほどの苦悩を抱えているお人なのだろと、その胸振り絞るほどにも切なくなるほどだそうだが。
『…そうだがって。誰に聞きました?』
『? お梅。』
 あの子はもうもうと、七郎次が困ったように苦笑したのはさておいて。
「…。」
 すぐ目の先、少しはだけた夜着の懐ろから覗く、強い肌の張った胸元が。健やかな寝息に合わせ、上下しているのを見て取ると。妙な言い方だが、それが自分の呼吸であるかのように安堵の気持ちが沸いて止まず。そこから再び視線を上げてゆき、ごつごつとした喉元、剛い顎髭、すっきりしたおとがいなどを辿ったその末。無防備だがそれでも冴えて厳しい印象の強い、勘兵衛の顔へと眸を据える。

 「…。」

 自分に慣れがなかったと同様、彼にしたところでそうそう誰ぞと…情を分かち合う目的でもない限り、誰かと床を同じくすることに慣れのある身ではなかったらしく。枕にと差し出してくれた腕をいつもいつも痺れさせちゃあ、そんな真ん真ん中へ頭を乗せさせるからですよなどと、七郎次からこそり意見されていたりもするようで。それでも、

 『勘兵衛様は、そりゃあ色んなものを負っておいでで。』
 『だってのに、
  ああまで広いお人、お強いお人なんですもの、参っちまいますよね。』

 そんな人だと評した七郎次から、

 『勘兵衛様を、どうかよろしくお願いしますね?』

 彼もまた久蔵を選んだのだからと託された。そして…喩えそれが、窮鳥を匿うような心根からのことであれ。この男が心許してくれるのが、傍へおいでと欲してくれるのが、何ともくすぐったくって嬉しいと、今は素直にそう思える。人材を集めるのが得意な軍師が、なのに友愛でも親愛としてでもその心をゆだねての情を交わす相手となると、途端に手を止め、口が覚束なくなるような男であり。寡慾なんだか不器用なのだか、人との関わり、いきなり下手になる勘兵衛が。口下手なこちらの瞳覗いて、想いを酌んでくれるほど、その手を差し伸べ、抱き込めてくれる。放任していても視線が届いていたこと、今になって気づいて、それが格別に嬉しくてならず。孤高でいたのが随分と遠い過去のことと思えるほどに、もはやこの温みなくしては いられぬかもとさえ思う久蔵であり。

 「……起きておったか。」
 「…。(頷)」

 じいと見つめていたことが刺激になってしまったか。それともこうまで傍らにいる誰かしらが、はっきり覚醒していることで放たれる存在感には、さすがに落ち着いていられぬものか。深い吐息を一つつき、ゆるりと上がった瞼の下から、深い色合いの瞳が現れるのを、息を殺して見届けてから。

 「そろそろ兵庫に。」
 「おお、そうであったの。」

 昨夜のうちに、七郎次が懇意にしているという仕出し屋の主人へと、とある文をば託してくれて。一応の用心、他のあちこちへも久蔵がうっかりと落としたかのように、結んだ文を1日かけてばらまいて来てはあったが、

 「のう久蔵。」
 「?」
 「偽物の文には何と綴った?」

 どれもこれも、あの“ささめゆき”とかいう達筆で綴ってあった文であり。読める人間が限られているというので使いはしたが、もしかしたらば…南軍出身の将官級以上の浪人が、絶対全くいないとは限らない。あの五郎兵衛だって、南軍の相当位にあった身が大道芸人としてこの街にいたくらい。罪のない出鱈目なら構わぬか、いやいや、あのようにわざとらしくも結んであるのは不自然と、何かへのオトリかもというところまでは読まれたかも知れぬ。

 “いや、それはそれでも構わぬのだが。”

 それまでにも久蔵に、さんざん威嚇や挑発をさせて来た延長のようなもの。あの壮年の侍崩れが、この若いのと組んで何を企んでやがると。浮足立っての早々と蜂起してくれたら重畳なわけだが。だからといって、こちらの思惑をどこまでか推量出来そうな、余計な助言を与えちゃあまずい。そうとおもって訊いたところが、

 「〜〜〜♪」
 「何が内緒だ。」
 「〜〜〜。」
 「いやいやじゃなかろう。」

 どうして言えぬ、〜〜〜と。何だか妙な問答しているお二人だが。………勘兵衛様、久蔵殿と結構“会話”出来るようになったんですねぇ。
(う〜ん)




     ◇◇◇



 必ずしもという決め事じゃあなくの、恐らく始まりは造形工夫の一環だったのでしょうけど。宿屋の正面口に接していて、泊まりの客の居室があるお二階へ続く大階段は、踏み板の下が吹き抜けになった、ハシゴを思わす風通しのいいのが通例で。傾斜があるからその裏っ側には空間が出来る。そこを内証という帳場の出入り口の正面に来るように据えれば、主人は帳場に居ながらにして、客の出入りのみならず、店の者の出入りまで、余さず見通すことが出来た。殊に妓楼なんかでは、太夫が勝手に抜け出さぬよう、監視の眸を光らせるのにも重宝していたそうで。何もじっと見ている必要はない。商売の始まる時間帯は有明だの燭台だのと、明かりを灯しても限度があるので、階段の裏なんて薄暗がり、帳場の明かりがあるのは見えてもその中までは到底見通せぬ。だがだが明るい店先の側、帳場のほうからはよくよく覗けたし、それに常時見てなくたって、いつ視線が来るかが判らぬという先入観が太夫らを縛るので、それだけでも効果は絶大だったとか。蛍屋はお抱えの太夫も持たないお座敷料亭だが、それでもその大戸へ続くのは舞台装置のように豪奢な大階段であり。その裏手にもぐると表からはなかなか見通せないので、用心のいる晩にはそこへ腕自慢の男衆を潜ませておいたりもしたのだそうで。そんな階段も昼間ひなかのあっけらかんと明るい中だと、単なる格子戸と変わらない。外と中とで違いに見通せるもんだから、

 「あれあれ、シチさん。そんなところへ潜って、何しておいでだい?」

 いい体躯をした大人が狭苦しい空隙へ潜り込むなんて、子供の悪戯のようにも見えなかないからか。仲居頭や若衆の兄さんなんぞが声をかけるが、その傍らに居合わせた白い衣紋の壮年殿へ気がつくと、あららこれは失礼しましたと、頭を下げてのそそくさ立ち去る気のつきようよ。

 “今更 勘兵衛様がおっかないってお人はいねぇだろうが。”

 それでもお客人がおいでなの、不躾に覗くような不調法者はこの店にはいない。なので、ある意味 公明正大に、開けた場所での作戦会議も可能だと。ともすりゃ大仰な言いようで、勘兵衛を離れからこのようなところまで呼び立てた七郎次。実を言うなら、いつ電信での連絡が入ってもすぐさま帳場へ飛び込めるようにと選んだ場所であり。ならば帳場をお使いよと、これは雪乃から言われたものの、そこまで優遇してもらっちゃあ気が引ける。大仰かもしれないが、これはあくまで店とは関わりない“謀議”なのだ。客人に穴場をこそりと訊かれている幇間…という、せいぜいそんな構図でなけりゃあならぬ。

 「警邏隊本部へ、例の書きつけが届いたそうですよ。」

 兵庫殿がどう出るかは不明ですが、それはそれこそ最初から織り込み済みの仕儀。聡明で鋭いあのお人が、折り返しウチへ何かしらの連絡をして来ないあたり、つなぎをつけるのには成功したとみていいとして。

 「うむ。では、後は外からの客人との出会いの頃合いを逃さぬだけだの。」

 勘兵衛には、順調な運びなのが手ごたえとしても判るらしく。うむうむと白い手套越しに、顎髭撫でる仕草を見せるばかり。今でこそ、段取りも聞いていての落ち着いている七郎次であるけれど、

 『実際のところ、こたびの相手はその目的が想定するのが難しくてね。』

 天下は大仰だとしても、この町の総督の座くらいは欲しているような、そんな野心に滾っているものだろか。そうまでの気概あるお人が、今の今まで影さえ見せずにくすぶっていたとは到底思い難いのではあるが。では、社会機構を粉砕するだけの暴動を起こしたいのか。アキンドが主軸という構成が続く限り、武芸しか知らない侍は重用されない。だが、そもそもよほどの戦さが起きない限り、侍はやはり不要なのであり。いっそ大人しく、警察機構にでも職を求めればいいだけの話じゃあなかろうかと、自分なんぞは思うのだけれどと、おどけるように肩をすくめた七郎次へ、そんな話をしていた相手、雪乃が白い頬を傾げてしまう。
『あんな連中の思うところなんて、判らなくて当然でしょうに。』
 理解出来るほうが問題ですようと、ご尤もなお言いようを返してくれたのへ、
『それはそうだが、だからって判らないじゃあ済まされない。』
 勘兵衛様だとて今更 正義の味方を気取っちゃあいないが、それでも後腐れのないようにと運びたいからこそ、思案を重ねておいでなのだよ。例えば、自分ならこうするという思いようの逆を張ってみたりしてねと。無難な思考の方法を語った七郎次であり。実際の話、今回の何やかやは、すっかりと全部 勘兵衛の頭の中から出されたもの。例の大戦の最中には、陽動だの撹乱だのと、外連
(けれん)の利いた作戦も、そういや たんと練ったお人だと思い出す。蓄積が山ほどお在りなの、あちこちの抽斗(ひきだし)へきっちり整頓なさっておいでであるらしく。見た目の実直さ堅物さを裏切って、大胆な策の数々を しかも即興で練り出し実行に移す彼に、そりゃあ素晴らしい呼吸で応じていた島田隊の連動の妙もまた強かであったことを思い出してみたけれど。

 「……。」

 その生死を、安否を、ああまで案じた大切なお人のはずが、昔を思い出せば…不思議と、いつもいつも苦虫を咬みつぶしたようなお顔でいらしたという印象が強い。作戦展開中や戦闘の最中は已を得ないとして、平生に執務室におられたときも、事務が苦手でおわしたからか、眉間に深いしわ刻み、黙りこくっておいでな横顔をばかり覚えていて。誰かが訪ねて来られると、相手にもよるがようやくホッとしたように相好を崩されるのが。傍づきの副官としては、安堵とそれとはまた別な感情とで、複雑な感慨を抱いたものだった。再会と同時に七郎次もまた関わることとなった、あの神無村での戦さでも、その当時を彷彿とさせるような難しいお顔をなさっておいでではあったけれど。それらが落着して以降、殊にこの半月ほどの間は、何かしらの策を捏ねつつも、妙に…浮き立つような感情の躍動を思わせる御主であり。それをこそ、善き方へと変わられたと解すべきなのだろか。

 “そうさね。これは悪い感触じゃあない。”

 孤高というのじゃないけれど、悠然としておいでな姿から、そうやすやすとは誰かのものにならぬ存在だと思ってた。誰ぞを意のままにすることなんて、いくらでも策を思いつけように。信頼を得て近づく手段も、逃げ場を封じて退路を断って、その手の中へと堕ちるしかないように追い詰めることも。容易に弄せるお人なはずなのに。

 “ま、今にして思えば、そっちの方は…。”

 戦さへの用意という頭であたっていればこその手管しか処せぬ人であり。素に戻れば様々な幸いへの傍観者でしかおれぬ、ただただ不器用なお人。そういった集中から解き放たれるや、ほっとしたようなお顔になるのも、そういう苛酷なことへと策を巡らすのが本当はおイヤだったからかも知れず。ところがところが、そういう観点から…侍としての手腕しか見てはいなかったつもりの久蔵に、いつの間にやら勘兵衛の側からも人としての関心を寄せていて。七郎次に構われ、拙くも含羞む愛らしさへ、ああこやつは人としても赤子同然なのだと知るや。大戦の残滓、燠火のような存在である彼を、見過ごせぬと思われたからだろか。行く末を見届けたいとし、迷ったなら抱きすくめ、大丈夫だとなだめる止まり木にでもなってやるさとまで思っておいでだと。……何故だか判る自分であるのが、

 “いい加減、切ないやねぇ。”

 その胸の裡
(うち)がある程度でも見越せる身なのが、こたびばかりはヒリヒリ痛むと。階段という横格子越しにそそぐ春先の陽気へ眩しげに眸を細める所作へと誤魔化して。微妙に苦笑った古女房だったりするのであった。



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  *相変わらずなかなか進まぬお話ですね。
   今回は兵庫さんとのつなぎの段だけのつもりだったのですが、
   ついつい長々綴ってしまいました。
(苦笑)


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